2024年標語
「分節」
明けましておめでとうございます。
今年の標語を決めました。
「分節」です。
ここ5年間の標語では、実験や研究をすることに関する具体的な姿勢に係るものが続きました。
2019:制約
2020:写生
2021:初心
2022:継続
2023:仮説
今回はかなり抽象的です。英語ではsegment。一つのものが区切られることなので、ショウジョウバエ胚発生の分節化も分節には違いありません。しかし、標語での「分節」は井筒俊彦さんの著書から拝借しました。井筒さんは「分節」にarticulationをあてます。井筒さんはイスラムや東洋哲学の碩学で、30以上の言語を解するとWikiでは紹介されています。以前から東洋の考え方に親近感を持っていたこと、「コトバ」に興味があること、生命現象を以前とは違った見方で表現できないか、との思いがあり抽象的なことを考えています。
まずは、井筒さんによる「分節」の解説です。
言葉が元来、意味分節(=意味による存在の切り分け)を本原的機能とするということを物語っている。対象を分節すること(=切り分け、切り取る)ことなしには、「コトバ」は意味指示的に働くことができない。pp.29
仏教古来の述語に「分別」という語 ―原サンスクリットvikalpa― があって、ほぼ「分節」と同義である。pp.30
意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学、井筒俊彦、中央公論社、1993年
形のない状態から異なる形を有する個別の物を生み出すときにおこるのが「分節」です。形のないものから形を生み出すことの例えも井筒さんの上の著書に書かれています。
“一塊の土を手に取り、様々に切り分け、それを材料としていろいろな器物を作り出すー茶碗、皿、鉢、壺、等々。それらは全部、「名色」的相互差異性によって、それぞれ別のものである。が、それらのどのひとつを取って見ても、土である”。pp.36
この例えは古代インド哲学書「チャンドーギア・ウパニシャド」にある。
意味の深みへー東洋哲学の水位―、井筒俊彦、岩波文庫、2019年 pp.80
そして、「コトバ」のもとになる、「種子」作る方法が唯識哲学がいう「薫習(くんじゅう)」です。以下は「種子」「薫習」に関する井筒さんの解説です。
経験や考えが、知らず知らずに意識の深層に薫き込められることを表し、この「薫習」によって蓄えられるのが「種子」であり、その貯えられる意識の領域がアラヤ識である。「種子」が具体的な言語や行動になって出てくることもあればないこともある。アラヤ識は内部言語で、「コトバ」は外部言語という位置付けとなる。具体的な「コトバ」の内部にはこのような「薫習」による内部言語の動きがある。
意味の深みへ―東洋哲学の水位―、井筒俊彦、岩波文庫、2019年 pp.92-94
井筒さんの著書を読んで「種子」が具体的な「コトバ」になる例を古今和歌集の編者、紀貫之が書いた仮名序の冒頭に感じました。
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける
詩を作るとは「コトバ」以前のところまでいってから降りてくる行いなのでしょう。
少し脱線しますが、井筒さんは文化の交流に関して「薫習」の関与を述べています。
さまざまな言語環境を持つ異なった環境で育った人同士が、深いところで理解し合えるのかに関して、「薫習」による内部言語がその背景にあるために、表面的には理解し合えても、異文化の深層理解は難しいのではないかと考える。ただ、異なるからこそ、内部言語の交流ができれば文化の新生がおこるのではないかともいっている。
意味の深みへ―東洋哲学の水位―、井筒俊彦、岩波文庫、2019年
文化と言語アラヤ識 ―異文化間対話の可能性をめぐって― pp.57-97
(この本は読むたびに発見があり、面白いです)
さて、かなり大変なことになってきました。アラヤ識である内部言語が表現できるかですが、「唯識」では深層意識を8つの段階に分けます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/唯識
唯識の八識:
2層の無意識:末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)
5種の感覚:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
意識
感覚以前の無意識領域にある「コトバ」に近い状態というのを、生物研究では表現することができるかもしれないと思いました。
例1:ショウジョウバエの胚や成虫原基には目に見えない区画があります。前後軸(anterior-posterior)、背腹軸(dorsal-ventral)を決める分子が境界として可視化される前に発現して、そこから区画が具体化されるのです(写真1、篠田さんの論文から。翅成虫原基の背腹区画を染め分けている)。パターン形成においては、Lewis Wolpertさんがポジショナルインフォーメーションといった時には実態もなかったわけですが、その後にモルフォゲンがわかってきて「コトバ」化が進みました。
例2:老化とか、ショウジョウバエ背中の剛毛数とか、個体差の大きい現象を扱っていると、個体差を理解するには表現型を作る仕組みの前の状態を知りたくなります。一つの表現型は、沢山の個体を観て統計的に解析されて表現されますが、個体ごとにみると、個々の細胞や組織がもっている「種子」が異なるため、表現型に個性がでます。そこで内部言語を覗きたくなるわけです。データサイエンスの手法では、非線形な現象をパターンで表現することができるようになってきたと感じます。知りたいことを、還元的な解析が得意とする線形の過程から、混沌とした無定型な状態を「分節」する過程の表現、とすることで研究のデザインが変わります。生物学でできることは地道に観察すること、遺伝学や生化学をすることですが、データの取り方と解析手法を変えることは可能でしょう。昨年は「仮説」を立てるセンスを磨くことの大事さを書きましたが、今年は「分節」する過程を探るといった曖昧な話になりメダワーさんに叱られそうです。今年も寝言を大事に研究していきましょう。
追記:昨年は東大東洋文化研究所の中島隆博先生にお声がけいただいて「遺伝学と倫理」について「新しい啓蒙」座談会で話しました。そのために下調べすると、この分野でもWaddington御大が貢献していました。
C. H. ウォディントン エチカル・アニマル 内田、幾島、森岡訳 工作社、1980年
Waddingtonは「The Ethical Animal」で、倫理も表現型なので、遺伝子と環境との組み合わせで決まると考えました。発生の仕組みに倫理観の形成も依存していると言います。ヒトは生物的な作りに関しては他の生き物とさほど変わりません。しかし、ヒトが進化で得たものは言語を用いて文化を伝えていく能力であり(社会遺伝システム:Socio-Genetic System)、それを続けていくうえで倫理的信条が不可欠な役割を果たしたとWaddingtonは考えました。Waddingtonがどう思うかどうかはわかりませんが、ヒトに特有の社会遺伝システムは、発生期から「薫習」によって形成されるというのが私には腑に落ちる考えです。
これに近いことを柴谷篤弘さんも言っているのではないかと思いました。
柴谷篤弘 あなたにとって科学とはなにか みすず、1977年
pp.26 神経線維の連絡網は、動物・人間が生まれてから育ってゆくあいだに、種々の経験を通じてしだいに完成されてゆくものであります。
pp.27 さて、与えられた遺伝的の枠―とうことは構造上の枠―のなかで、視覚の機能は。幼い時の経験にしたがって発展します。
pp.29 動物の視覚というものは、発生途上の経験にもとづいてたくわえられた、数多くの、感覚印象総合のための型・パターンを動物の脳のなかに原型として貯蔵(記憶)しておいて、外から入ってくる感覚印象をこの原型と比較することによって、それを一定の基準に照らして比較がついたものだけが、認識となってさらに記憶に蓄えられ、それ以外のものは、見れども見えず、というぐあいで、棄却されてしまう、ということがわかってきました。
これら柴谷さんの記述をまとめると、モノあるいは対象を捉える感覚は自ずと遺伝と環境、経験を経て個々に反映され、その結果、対象から得て認識するときに無意識に取捨選択をしていることになります。これは井筒さんが異なる言語で作られた文化交流の難しさと可能性を考えるベースになっているアラヤ識の内部言語形成の話と繋がります。
興味:ヒトが獲得した社会遺伝システムは強力です。「The Ethical Animal」では、マーガレット・ミードのマヌス族の研究で、石器時代の状況から現代社会の初期段階までを一生のあいだに変化させていたことを示したことが書かれていました。チンパンジーはヒトと1.2%しかゲノム配列は違わず、挿入や欠失などを含めても5%の違いしかありません。言語の習得は単語までで、文法は理解できないそうです。ですからチンパンジーは社会遺伝システムを持っていないことになります。しかしヒトがすぐに言語を持った訳ではありません。Wikiにはホモサピエンスの現生人類は20万年前にアフリカで出現し、書かれたものが残っている言語としては紀元前3000年頃のエジプト語が最も古いとありました。果たしてチンバンジーもそのうち言語を持てるようになるになるのかどうか。20万年前のヒトが今に生きたらすぐに言語に適応するかどうか。
写真1、翅成虫原基(Shinoda et. al., PNAS 116, 20539, 2019)
写真2、散歩でよく訪れる一橋大学の兼松講堂(伊東忠太設計)
写真3、一橋大学のソテツ、6月初めに葉がなかったのが、4週間後には立派に生えていて驚いた。拡大写真はさらに4週間後のもの。秋にソテツの近くを歩いたら、伊東忠太作らしき怪獣彫刻があった。
2023年標語
“仮説”
新年明けましておめでとうございます。標語も25回目になりました。
今年の標語は「仮説」です。
学生の頃、誰に言われたかは思えていないのですが、“遺伝子の作用は細胞レベルで現れる”ということを聞いてそれが染み付いていました。当時はレポーターで分子の動きをイメージングするような技術がなかったので、遺伝子変異や遺伝子操作した際の表現型は、細胞増殖、分化、細胞死、と、どれも細胞レベルでの出来事を指標に実験をしていました。例えば、「オリゴデンドロサイトが分化してくる際の遺伝子制御」を解くための研究は、「オリゴデンドロサイト特異的な発現をする遺伝子には特別な転写調節がある」との仮説を立てて実験を組むわけです。西洋で生まれた科学は、自然現象を解けるテーマに分解して、仮説を立てて実験を行い、その結果を積み上げて理解する還元的なアプローチに立脚しています。解けるテーマに制限はありますが、これまで大きな成功を納めてきました。しかし研究をしていくと、細胞運命だけではなく、組織や個体で現れる大きな生命現象、例えば組織再生や老化、自然免疫や個体差にも面白さを感じてきました。このようなテーマを扱う時に、どうやって遺伝学で解けるテーマを設定して、適切な仮説をたてて実験を進めるのか、というのが当面の問題になります。
個体老化を対象にした研究がモデル生物を用いて進められています。個体老化がどうしておこるのか様々な説が考えられてきましたが、それらの説は野生生物を対象にしたもので、進化生物学的、生態学的、動物行動学的なものでした。
Evolution of ageing
https://en.wikipedia.org/wiki/Evolution_of_ageing
Senescence
https://en.wikipedia.org/wiki/Senescence
老化を考える上では言葉の定義が大事です。
aging(英ageing):加齢
senescence:加齢にともなう細胞や身体機能の低下を示す。一般的に使われる老化の意味合いに近いのはこちらです。
Peter Brian Medawar (1915-1987)の“老化”の解説
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Medawar
Medawarは1960年に後天的免疫寛の発見でノーベル生理学・医学賞を受賞した免疫学者です。
Medawar's 1951 lecture "An Unsolved Problem of Biology" (published 1952) addressed ageing and senescence, and he begins by defining both terms as follows:
We obviously need a word for mere ageing, and I propose to use 'ageing' itself for just that purpose. 'Ageing' hereafter stands for mere ageing, and has no other innuendo. I shall use the word 'senescence' to mean ageing accompanied by that decline of bodily faculties and sensibilities and energies which ageing colloquially entails.
では、次に今の老化研究に影響を与えた説を紹介します。
【老化(senescence)のAntagonistic Pleiotropy Theory】
生物は種が繁栄するために子孫を増やすことが重要で、生殖期までに多くのエネルギーを費やします。自然選択は生殖期を含む若い時期の適応度を高めるように働くので、生殖期以降はむしろ若い頃のトレードオフとして活力は低下するという考えがMedawarによって言われ(Medawar, P. B. 1952. An Unsolved Problem of Biology. H. K. Lewis, London)、1957年のGeorge C. WilliamsのAntagonistic Pleiotropy(あるいはgenetic trade-offs)説に続きます(Williams, G.C., Evolution 11, 398-411, 1957)。この説では自然選択が個体というよりはむしろ遺伝子レベルでおこることを想定しています。一つの遺伝子は様々な表現型に関わりますが、若い時にポジティブに働く遺伝子は中年以降はそのトレードオフとして老化(senescence)を引き起こすというものです。
以下Williamsの1957年論文からの引用です。
-There should be little or no post-reproductive period in the normal lifecycle of any species.
-The time of reproductive maturation should mark the onset of senescence.
-Rapid individual development should be correlated with rapid senescence.
-Successful selection for increased longevity should result in decreased vigor in youth.
-The selective value of a gene depends on how it affects the total reproductive probability.
-So natural selection will frequently maximize vigor in youth at the expense of vigor later on and thereby produce a declining vigor (senescence) during adult life.
MedawarやWilliamsの、自然選択は遺伝子にかかるという考えはRichard DawkinsのThe Selfish Gene (1976)につながります。Dawkins(自然選択は遺伝子レベルでさなれ、個体はその乗り物のようなもの)とStephen Jay Gould (自然選択は遺伝子、個体、種といった複数のレベルでおこる)は自然選択の対象が違うために議論になりました。Gouldは遺伝子と個体の表現型が1:1で結びつくことは一般にはまれで、自然選択は遺伝子ではなく個体レベルでおこるとの立場をとります。
「要するに、ドーキンスの理論のもつ魅惑は、西洋式の科学的思想につきまとっている悪習―原子論、還元主義、決定論などとよばれる姿勢(これらの通語を許してほしい)―に由来するものだと私は考える。総合的な統一体はすべて“基本的”な単位に分解することによって理解できるという考え方。」Stephen Jay Gould:パンダの親指(早川書房)pp.131-132.
「生物は、多数の遺伝子をいっしょにしただけのものよりはるかに奥深いものである。生物は歴史という重大な一面をもっており、その体のさまざまな部分は複雑な相互作用をしている。」Stephen Jay Gould:パンダの親指(早川書房)pp.132.
これに対し、Dawkinsは
「グールドは、前もって、私が素朴な原子論者であるに違いないと、あまりにも確信しすぎていただめとしか思えないのだが、彼がのちに主張するのと正確に同じ相互作用論者の立場を明らかにしたこの長い文章を見逃したのだ。」Richard Dawkins:利己的な遺伝子(紀伊国屋書店)pp.469.
Dawkinsは、Gouldがいうほど考えは異なっていないとしています。Dawkinsは実験行動学者N. Tinbergenの弟子で、Selfish Geneでもその説明に多くの行動学的な観察を使っています。Gouldは古生物学、進化生物学が専門で、そのような学問をした背景からSelfish Gene読んで違和感を感じたのでしょう。分子生物学を学んだ自分にも、Selfish Geneの行動学を踏まえた説明がしっくり入ってこないところもあり、学生の頃の学習や経験が捉え方に大きく影響するのだと思いました。私はDawkinsとGouldの意見の違いは、遺伝子から個体の表現型へと直線的に対応するかどうかの考え方の違い、還元的なアプローチにどのくらい重みを置くかの違いとみました。
個体の表現型は環境の影響を受けるため、本質的に遺伝子型では決まらないと考えたのはC.H. Waddingtonで、The Alpbach Symposium: Beyond Reductionism(1968)での話がA. Koestlerの「還元主義を超えて、pp.487 工作舎」で紹介されています。後成的空間(これはepigenetic landscape後世的風景と同じ?。後世的風景は岡田節人先生の訳)はepigenetic(遺伝子外)に規定される要因、例えば環境とエピゲノム変化を示す。遺伝子型から表現型の理解をしようとするチャレンジの一つがGWAS(genome wide association study)といえるでしょう。
“遺伝子の作用は細胞レベルで現れる”を個体まで広げていいのか、広げる場合、遺伝子変異から個体老化などの表現型を説明できるのか、ということが私の問いです。多細胞動物の「細胞死」は「個体死」と近い関係があるかというと、それはないというのが答えです。線虫でプログラム細胞死が起きないced-3, ced-4変異体を見出したH.M. Ellis & H.R. Horvitzの記念碑的論文(Cell 44, 817-829, 1986)で、細胞死変異体は普通の飼育条件では問題なく生存していることが示されています。ショウジョウバエやマウスのアポトーシス変異体は致死になりますし、他の動物でアポトーシス不全により個体死が遅くなるような例を私は知りません。
その一方でC.J. Kenyonが同定した線虫daf-2 (insulin/IGF-1受容体)変異が寿命を倍に伸ばすとの発見は驚きでした(Kenyon, C., et al Nature 366, 461-464, 1993)。この変異体で「細胞老化」の検討はされていませんが、「細胞老化」と「個体老化」を連続した現象と見るか、類似した現象ではないと見るかに関しては検討の余地があると思います。
実験遺伝学、分子生物学による老化研究は実験室の飼育条件で寿命変異体がとれたことによって進み、単一遺伝子の変異が個体老化に及ぶことが示されました。WilliamsのAntagonistic Pleiotropy Theoryでは長寿変異体は生殖に不利に働くとしていますがdaf-2変異体で産卵数が減ることもありません(Zhang et al., nature comm. 12, 6339, 2022)。また、進化生物学や行動学が扱う自然選択の場である野外環境でも遺伝子と個体老化の対応が可能かは未だ不明です。老化の理解にはモデル生物を用いた実験遺伝学による老化研究と野生動物での老化研究が交わることは必須です。
個体の表現型を扱う時に、どうやって遺伝学で解けるテーマを設定して、適切な仮説をたてて実験を進めるのか、ということが問題でした。これは実験科学の基本です。最後にMedawarの指南書を紹介します。
P.B. Medawar, Advice to a Young Scientist, 1979 Harper & Row
若き科学者へ 鎮目恭夫訳 みすず書房
1981年版を参考にしましたが新版もでました。
https://www.msz.co.jp/book/detail/08530/
自分には科学者になれる頭があるか
一つの知能検査
「多くの人の眼には、エル・グレコの絵の中の人物(とくに聖像)はしばしば不自然に背が高くてやせて見える。ある眼科医がこういう説をだした。こんな画像ができたのは、エル・グレコが、彼の眼には人間の姿がこんなふうにみえるような視覚異常をわずらっていたからであり、そのため彼が人間を自分の眼に見える通りに描いた結果として必然的にこんな絵ができたのだと。
この解釈は正当であるか?」pp.11
→Medawarはこれを直ちに美的理由からではなく、哲学的にナンセンスだと気づく人は疑いもなく聡明である。しかし、私が説明してもなお、そのナンセンスさがわからない人は、かなり頭が鈍い、といっていた。残念ながら私は確実に後者。
エル・グレコの絵は以下のような様式です。
https://www.musey.net/561
何を研究しましょうか
「重要な発見をしたいと思うなら、重要な問題に取り組まねばならない。つならない問題やばかげた問題に取り組めば、つまらない答えやばかげた答えしかでてこない。問題が「興味深い」というだけでは十分でない。ほとんどどんな問題も、充分深く研究されるなら興味深いものだからである。」pp.17
→Medawarに叱られますが、私は興味深いことに惹かれます。
解けるものを解く
「しばしば問題を解く鍵は、従来「かなりおおい」とか「かなり少ない」とか「多くの」とか、科学の文献で最も始末の悪い「顕著な」(例えば「この注射は顕著な反応をひきおこした」というような)という言葉で表されていた現象や状態を定量的に表す方法を案出することにある。」pp.24
→これは同感。
論文の書き方
「講演やセミナーやその他の口頭発表を何回やっても、学術雑誌への寄稿の代わりにはならない。しかし、周知のように、論文を書く段になると、科学者はうろたえて、あらぬことへ走ってしまう、まるで意味のない実験をしたり、役に立たない装置や不必要な装置を組み立てたり、あげくのはては委員会げ逃げ出したり。」pp.84
→論文を書くことは私も苦手です。しかし、それをやらねば研究に区切りがつきません。
「科学者は、論文をたくさん読んでいるから、論文を書く直観的能力をもっているはずだとされているが、これは若い教師が、講義をたくさん聴いたことがあるから、講義をする能力があるはずだと考えるのと同じことだ。」pp.84
→論文を書かない研究を重ねることと、研究をまとめて一つの論文発表することとは次元が異なります。
実験と発見
「どんな実験も、その結果がどんな形を取りうるかについてのはっきりとした予測なしにはなすべきではない。…あらゆることを許す仮説は無意味である。」pp. 99
→難しいことですが、こうあらねばと同意。
「発見はすべて、かくれた仮説として出発する、すなわち、世界の本性についての想像的な先入観や期待として始まるのである。」pp.102
→パスツールの「In the fields of observation, chance favors the prepared mind」と同じ。
科学の方法
「どんな現象も許す仮説は、全く何も教えてくれない。禁ずる現象が多ければ多いほど、その仮説は、より多くのことを教えてくれる。…私の言う「解けるものを解く技術」の大部分は、実行可能な実験によってテストできる仮説をつくる技術である。」pp. 115
「良い仮説は論理的直接性をもっていなければならない。」pp. 115
「若い科学者は何も仰々しい方法論を行使する必要はない。しかし、単に事実を集めることはせいぜい一種の室内娯楽でしかありえないことははっきり悟らねばならない。」pp. 127
→オミクス解析で大量の事実が容易に集まるようになってきましたが、そこから仮説に直接関わる事実を見出すには、時間をかけてデータと取り組むことが必要です。かつて、苦労して得た一つの遺伝子に関して、プロモーター配列やアミノ酸配列をじっくり時間をかけて眺めることをやっていました。実際はそうすることしかできなかったのですが、そのうち配列の特徴が見えてくることがありました。難しい文章を繰り返し読むと、突如として腑に落ちることがあるのと似ていると思います。
いかがでしょう。Medawarのアドバイスは明晰ですね。いい仮説とはMedawarにしてみると、そこに投げるしかない投球ということではないでしょうか。苦手な課題ですがこの1年追及していきたいと思います。
12月。本格的に寒くなる時に、湯島聖堂の櫂の木は素晴らしい落葉を魅せてくれます。本郷キャンパスでは銀杏の枯れ葉と同時にヒマラヤ桜が満開になります。師走の身近な自然は忙しく動きます。
2022年標語
“継続”
新年明けましておめでとうございます。標語も24回目になりました。
今年の標語は「継続」です。
始めた研究を「継続」して掘れるだけ掘り下げる。幸い、私たちが研究の対象にしている生物は、遺伝子、タンパク質、代謝産物に至るまで長い時間をかけて洗練され残ってきた有機物から成り立っているので、どの分子をとっても国宝級、世界遺産級です。これを相手にして面白くないわけがありません。面白くないとしたら、まだまだその分子との付き合いが足りないと思っています。
「継続」は標語「制約」「初心」の続きです。「制約」に関しては、昨年の学内広報no.1550の淡青評論にも書きました。
”制約からの発見”
https://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1550/end.html
「制約」して「継続」とはなかなかストイックですが、自分の味を出すにはこれしかないのではないでしょうか。
大岡信 「肉眼の思想」中公文庫 p55 から
うますぎると人に感じさせる作家が、つねにある種の二流性を脱しきれないのも、たぶんそのことと関係がある。夏目漱石が大正五年、死の直前に芥川、久米の二人の弟子に送った手紙の一つで与えている次の教訓は、小説を書く仕事の本質を正確に語っている言葉として記憶されるに値しよう。
「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。(中略)根気づくでお出でない。世の中は根気の前に頭を下げる事を知ってゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません」
大岡さんも「継続」の人です。朝日新聞に毎日「折々のうた」を47歳(昭和54年)から76歳(平成19年)まで続け(6762回)、日本の詩歌を紹介しました。絶です。
現代美術の宇佐美圭司さんは美術家としての初期から晩年に至るまで繰り返し同じモチーフを使った作品を作制しました。宇佐美さんは決まったモチーフを用いた壁画を中央食堂に1977年「きずな」と題して描きました。私は毎日のように誰の作品とも知らずに、タンメンか赤門ラーメンを食べながら眺めていました。しかし、この壁画は、中央食堂改修に伴って2017年9月14日に廃棄されてしまいました。このことが大きなニュースになったことで作者が宇佐美さんだったと知ったわけです。以来、宇佐美さんがとても気になる人になりました。まず、宇佐美さんの「二○世期美術」岩波新書(1994年)を読んで引かれました。宇佐美さんが国立(たぶん、多摩蘭坂に近いところだったと思われる)でアトリエを構え創作を始めたのにも親近感がわきました。
宇佐美さんは1965年「ライフ」誌に掲載されたロサンゼルスのワッツ暴動の写真に注目しました。暴動に加わった人たちは、勝手に行動しているようで、運動が同期しているようでもある。これを人型(かがむ人、たじろぐ人、走る人、投げる人の4人)として絵画に使うようになりました(人型シリーズ)。この人型には頭部がなく、匿名性が強調されています。宇佐美さんは「それら[人型]を扱う基本的な方法は、一つの人型の輪郭が、そのラインを閉ざしてしまうことを防ぐために、何らかの形で他の人型や外形と関連づけ、空間の内部、外部の相互性の種々な相をあばき出すことになった」と述べています(美術手帖299, p.144, 1968;加治屋健司編「よみがえる画家 宇佐美圭司」東大出版会2021, p.45)。そして1965年(宇佐美さん25歳)からこの方法での作品を継続して作成し発表するようになりました。1966年に南画廊で人型シリーズの個展を開き、1968年には同じく南画廊でレーザー装置を使った<Laser: Beam: Joint>を発表。レーザー光線でアクリルの人型を繋いだ作品です。1971年には<ゴースト・プラン>シリーズを南画廊で発表します。そして1977年に描かれた<きずな>は1971年の<ゴースト・プランNo.2>と同じ構図で描かれました。宇佐美さんの人型シリーズは晩年2011-2012年の<制動・大洪水>にも登場しています。
宇佐美圭司「デュシャン」岩波1984, p.194から
絵画は見えるものを表現する一つの形式であった。しかし、形式の中で生きている私たちは逆に形式によってものが見えるようになる。いやむしろ形式以外の見え方を失くしてしまうのだ。(中略)私は私にとり付いて離れない「形式」から身をふりほどこうと虚空を見つめる。
宇佐美さんは繰り返しの人型シリーズ絵画試行錯誤の中で「もの」を表現する絵から「こと」を表現する方法はないのかを探っていたのでしょう。日本人は「もの」作り(獲り)には長けているが「こと」(現象)を作り出すことは得意ではなく、これは科学でも当てはまる気がします。得意分野を伸ばすか、不得意分野の克服を目指すか。どちらにしても「継続」しないと気持ちが定まりません。
「継続」するには近い「目標」と遠い「目標」とが必要です。「目標」についてイチローは20代から30代になったときのインタビューで面白いことをいっています(石田雄太「イチロー・インタビューズ」文春新書 2010, p.137から)。
一切のムダを削ぎ落とした20代。彼が得たものは大きかっただろう。しかし、同時に失ったものもあった。そういうものを30代に取り戻したいという思いが、無意識のうちにイチローの中に芽生えているような気がしてならない。
イチロー「ああ、考えてみると、確かにそういうところ、ありますね。野球にしてもそうなんですよ。最後に目標にしているのは、あの子どもの時の感覚なんですよね、たぶん...」。
ただ野球が楽しかった、あの子どもの頃の感覚に辿り着くまで、イチローの野球へのモチベーションは下がることはないのだ。
このイチローの遠い「目標」はまさに「初心」のことだとピンと来ました。昨年の還暦の会でも遺伝同門の皆さんとオンラインで会いましたが、皆さんが変わらないのは「初心」の「継続」がされているからなんですね。まずは近い「目標」に「制約」して「継続」していきましょう。
2021年標語
“初心”
新年明けましておめでとうございます。
2021年の標語は「初心」です。
藤井聡太も今年の抱負で使ったこの言葉を私が聞いたのは、1979年の東京都立大学入学式でした。沼田稲次郎総長が世阿弥の言葉として「初心忘るべからず」を紹介しました。このような式典の挨拶はことごとく忘れていますが、なぜかこの言葉は覚えています。私は還暦なので仕切り直しの年で初心ですが、皆さんもこれから迎える2021年の変化に初心を感じるのではないかと思います。
初心が一番湧き上がるのは3~4月。OGの古藤さんが「小学の時に新しい教科書を手にした時のワクワクした気持ちがたまらなかった」、といっていましたが、私もそれを聞いて同じ感覚を思い出しました。中学あたりから生物の勉強がしたいと思っていて、そのためには高校では違うことをやって備えようと物理化学選択をしていたので、都立大の理学部生物に入った時には、これでやっと生物にどっぷりと浸かれるという喜びにあふれていました。その喜びは、京都の学会で遺伝のメンバーと炎天下を歩いて喉カラカラでたどり着いた先斗町で飲んだビールのうまさに似た感覚か。微分積分学の講義で鶴見茂先生が「準備のための勉強は身につかない。今必要なことを集中してやるのがよい。必要がでたら、それはその時からで十分に身に付く」とおっしゃいました。高校での物理化学選択はなんら足しにならなかったことを思い、それから学習方針を変えました。2021年は、目の前の必要な研究を深く深く掘っていきましょう。とても狭い自分の研究テーマの1点に関して、1)世界で一番知っている人になること、2)どこからでもかかってこい、と自信(勘違いでもいい)をもつこと、が専門家になる一歩だと思います。それをすることで初めて違う風景が少し見えてきます。
昨年の標語[写生]は「うつす」ことを念頭にしていました。「初心」の今年は生物研究の成果を論文として表現(うつす)する上で用いる言葉について脱線しながら書きたいと思います。日本人が英語の論文を書くときに、
1、初めから英語で考えて書く派
2、日本語で書いてから英語にする派
の2つのスタイルがあります。駆け出しの頃は、修練の意味もあって1で書いていたのですが、最近は2のスタイルがしっくりきます。この違いは研究内容の変化にも大きく依存していて、分析的な仕事をまとめるのは1、現象に解釈をつける仕事は2、といったおおまかな分け方が可能です。そもそも、研究の計画を立てるときには日本語で考えますが、日本語vs英語でそれほど違和感のないことを考えるのが1、和風な思考が大きく入ってくるのが2とも言えます。
それでは英語と日本語はどこが違うのでしょうか。
大岡信は「詩人 菅原道眞」のp11から日本語の発明について書いています。
日本語は平安の発明である。
平仮名:漢字の草体を簡略化した日本製の文字記号
片仮名:漢字のある局部だけを漢字体から切り離して独立させ、音標文字化した日本製の文字記号
どちらも漢字の「移し」
漢字、平仮名、片仮名の三種類もの文字表記を混合使用する言語はない。
数学者の野口潤次郎が「岡潔博士の数学研究と日本文化」の p29あたりから面白いことを書いています。
https://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~noguchi/oka/hashimoto-oka-lect.pdf
(1) 表意文字: 権威がある。りっぱである。知っていることに価値。→権威主義
(2) 表音文字: 勝手なことが言える。姿・形を表現しやすい。表現の濃淡を付けやすい。→オリジナリティーに価値をおく。
ヨーロッパは、表音文字による(2) の文化・文明であると思います。シナ大陸は、(1) の文化・文明です。日本は、仮名漢字交ぜ書き文化・文明で中間 (1)+(2)/2ぐらいではと思います。明治維新に民間で起こった「言文一致」というのが日本の文化を更にぐっと(2) へ動かしたと思います。
生物研究者として、生物がやっていることを実験をして生物から聞き取ろうとしているのですが、その場面で使っているのが日本語です。日本人は表意文字から表音文字を発明して、表意・表音の混合で日本語を作ってきましたので、欧米人とは異なる見方で生命現象の面白さを感じることはありそうです。
科学が得意とする要素に分ける解析方法は、文章(対象物)を表音文字(要素)にまで分解し、また再構築する過程に例えられないでしょうか。生物が使っている文字として遺伝子DNAの塩基配列があります。ACGTとアルファベットで書ける表音文字です。これをある決まりに従って並べると発現ベクターが作れます。DNA文字列を細胞に入れるとタンパク質が発現して細胞応答という文章が生まれます。
プロモーター、ORFに翻訳開始終始配列、polyA付加シグナルをつける。
大学院生のときに基礎生物学研究所で遺伝子発現実験の講習会があり、そこで仕入れた手法をもとに、自分で発現ベクターをデザインしてlacZを発現させてX-Gal染色後に青い細胞を見た時の面白さといったらありませんでした。単純なACGT配列をつないで作った文字列を眺めても何を意味しているのかは見当がつきません。しかしその文字列を細胞が翻訳してタンパク質を作ったのです。すごくないですか。大学院時代はほとんどの時間をこの実験に費やし、ポスドク時代の大事な実験もこの手法で行いました。大学院時代にはグリア細胞特異的な遺伝子の転写制御の研究をしていました。アストロサイト特異的な遺伝子GFAPはアストロサイトの細胞株で、オリゴデンドロサイト特異的なMBP遺伝子はオリゴデンドロサイト様の細胞株でのみ作成した発現ベクターのプロモーターが働きました。このプロモーター配列に細胞特異性を出すDNAエレメントがあることはわかりました。しかし細胞が使っている遺伝子発現の特異性を出す文法の理解には一つの細胞特異的な遺伝子の発現をみるだけでは到底至りませんでした。
補足)
こんな駆け出しのころの研究の話を日本Cell Death学会に書きました。
http://jscd.org/pdf/e02_200801miura.pdf
学会のホームページでは細胞死研究に関わった先生方の面白い文章が読めます。
http://jscd.org/essay.html
生命現象から遺伝子までの解析方法は当時から長足の進歩を遂げ、今では私たちも気軽にRNA seqで遺伝子発現データをゲノムワイドにとれるようになりました。このACGT(ACGU)の表音文字データを眺めて細胞が使っている文法を理解する研究手法の開発が研究の鍵となりますし、既存の方法からでも断片的な解釈データから文法を知ることが可能かもしれません。この段階で日本語をベースに考えることで独特の味が出てくるのではないか思います。遺伝子クローニングや生化学の研究を得意とした日本の生命科学が、生命観を提示する研究分野でも面白い研究を出すには日本語を大切にすることだと思います。
「芸術家すなわち文学者、音楽家、画家たちは、哲学者や科学者ほどには言葉を信頼していないようにみえます」
武満徹 「音」と「言葉」、樹の鏡、草原の鏡 より
扱う現象が因果のはっきりした線形であれば言葉で現象を変換して伝える「科学」は有効です。ところが生命科学が非線形の現象を扱うようになってくると、どう捉えれば腑に落ちるのか、ということを示さなければならず、多分に感覚的なものを含みます。変換法(文法)がよくわからないAIが入ってきた生命科学は、言葉に信頼がおけなくなって、その行き場はこれまで期待されてきた因果関係に立脚した答えとは違ったものになっていくかもしれません。生命科学が科学であるためには文法を理解する姿勢をとり続ける必要があるでしょう。その一方で、原因分子を取る遺伝子クローニング、見えなかった分子を見るイメージング技術の開発などは、文字や単語を発掘する研究であり、要素を探求する「科学」であることに確実に立脚しています。ここいら辺を研究の主要な一次産業として動かすことが美味しい果実を育てるのに欠かせないと思います。